前進 -


ゆっくりと時間は過ぎて行った。
マスターがどのような仕事をしているのかは分からない。
私にそれを詮索する権利はないし、詮索する理由もない。
私は私のできることをやればいい。
あの日マスターに言われたことを、私は黙々と実践していた。
相変わらず二人は野菜を残す。私が注意をする。
マスターが渋々口に運び、その後息子も渋々口に運ぶ。
嫌いなものをチェックし、それをどうすれば美味しく感じるのかという研究も怠らない。
洗濯をし、掃除をし、たまにマスターの部屋を片付け、そして息子と遊ぶ。
合間合間に私の棒読みのジョークが挟まれ、そのたびに彼は私を冷めた目で見つめる。
相変わらず笑顔はない。
それを私は残念に思うが、しかし他に方法が思いつかない以上仕方ない。
藁をも掴む、というのはこのことを言うのだろうと、身を持って理解した。
しかし、手掛かりが全くないわけではなかった。
彼が私といる時間が少しずつ増えている。
僅かだけれど、それは手掛かりと呼べるのではないだろうか。
そのことに少し誇りを持った。
どうにか命じられた仕事をこなせそうだという充実感が、私にはあった。

ある日のことだった。
外がとても晴れていたので、私は息子を散歩に誘うことにした。
マスターも誘ったのだが、彼は仕事が忙しいらしい。
あまり部屋に篭っていると健康に悪いですよと釘を刺した後、私は息子と外へ出た。
彼とこうして出掛けることは初めてだった。
彼が外に出ないわけではない。
いつの間にか出掛けていることがたまにあり、
そして私は彼がどこに行っているのか知らなかった。
ついていかなくて大丈夫でしょうかと、何度かマスターに尋ねたが、
彼はそのたびに、すぐ近くだから大丈夫だよと答えた。
かまってやりたいと言っていた割に放任主義な一面がある彼に、少し呆れた。

雲一つない快晴の空の下、私と彼は歩いていく。
どこに行きましょうかと尋ねる私を無視して、彼は一人で歩いて行ってしまう。

「あまり急ぐと転んでしまいますよ」

そう言った私に、彼の返した言葉は、

「足元」

どういう意味だろう、と思った次の瞬間、
私はすぐ側に生えていた木の根に躓き、派手に転んでしまった。
自分で注意しておきながら、何たる様だろう。

「そこ、僕も昔よく転んだから。気をつけてね」

息子はそう言うと、また歩き始めた。
置いていかれては困ると、私も急いで立ち上がり後を追おうとして、ふと気付く。
先程、彼は私を心配してくれたのだろうか。
そのような言葉をかけてもらったのは初めてではないだろうか。
そのことに気付き、私は喜びを感じた。
相変わらず笑顔は見せてくれないが、
それでも私のことを認識し、気遣ってくれた。
今もそうだ、先程より歩く速度が若干遅くなっている。
脚部に特に異常は見当たらないが、しかしそれを彼に伝えることはしなかった。
彼のその気遣いの心が嬉しかったから、黙っておく。
それにきっとこの年代の子は、
そのことを指摘しても照れてそっぽを向いてしまうだけだろうから。
このままいけば、いずれ彼ともっとコミュニケーションが容易に取れるようになるだろう。
一番困難な仕事をどうにかこなせそうだと、改めて感じ、私は彼の後を追った。

十分ほど歩いただろうか、なだらかな上り坂を上り、
木々の合間を抜けて辿り着いたのは、小高い丘だった。
そこだけぽっかりと開けており、ちょっとした広場のようになっている。
家のすぐ近くにこのような場所があったことを、私は知らなかった。
ここが彼の遊び場所なのだろうか。
それにしては何もない場所だ、と思っていると、彼が丘の頂上の方へ登っていく。
崖というほど切り立った場所ではないが、
それでも危険だと思い、すぐに助けられるようについていくが、
彼は丘の端にまでは行かなかった。
その少し手前にあった、土の盛られた、
小さな小さな山の前にまで歩いていき、座り込む。
花が添えてあるが、これは、何なのだろう。

「この山は何なのでしょうか」

尋ねた私を一瞥し、彼は再びその小山に向き直る。

「おはか」

ぽつりと、そう呟いた。

「かあさんが眠ってるんだよ」

お墓、母親。
それらの単語から、私が今までずっと誤解をしていたことを知った。
だが、マスターの言葉から、離婚を連想するのはごく当たり前のことだ。
誤解というのは語弊があるかもしれない。
しかし、逃げられた、という言葉から、
死んでしまっていることなど想像できるはずがない。
マスターがどのような意図であのような発言をしたのかは知らないが、
私はとりあえず自分の中の記憶の書き直しを行うことにした。

「ここなら、かあさんは寂しくないから」

立ち上がり、彼は丘の下を見つめる。
そこからは、彼と、彼の父親、そして私が住む家が見える。
先程干してきた洗濯物が、風になびいているのが見えた。

「貴方も、寂しいのですか」

ううん、と、彼は呟く。

「僕が寂しいと、かあさんが悲しむだろうから」

そう言う彼の横顔は、何かをこらえているような表情をしていた。
このような時、私はどうすればいいのだろうか。
分からない私は、ただ黙っていた。
寂しいとは、何なのだろう。
死んだ者も、寂しいのだろうか。
マスターは寂しくはないのだろうか。
妻と呼んでいた人間がいなくなることは、寂しいに該当しないのだろうか。
多くのことを学んできたにも関わらず、
私には相変わらず、その感情が理解できないままだった。
喜びや嬉しさなら感じられるというのに。
私は出来損ないなのだろうか。
それとも、それで正しいのだろうか。
分からない私は、ただ黙っていた。
息子も、黙っていた。
静かな時間が流れていく。
よく晴れた一日だった。


その日から、息子は少しずつ私と話すようになってくれた。
まれにだが、笑顔も見せるようになってくれた。
新しいジョークを取り入れたのがよかったのだろうか。
確かにあのジョークは私としても自信があったのだ。
彼のツボをどうにかして掴んで行ければ、
更に彼とのコミュニケーションが図れるようになるだろう。
きっとつまらない芸人も、こうして技を磨いていくのだろう、などと、勝手に分析してみる。
とにかく、彼の子守は無事達成できそうだった。
そしてまた月日は流れていく。
ゆっくり、ゆっくりと。




                    -




∠long  ∠index