第二話 -


うつ病は心のカゼとも言われる。
誰にでもかかる可能性はあるらしい。
しかし普通のカゼと違う点は、自然に回復する事がほとんどないという事だ。
(僕もうつ病みたいな病気なのだろうか―――)
授業中、タケシはぼんやりとそんな事を考えていた。
季節は秋で決して暑いという事はないのだが、彼の額にはじっとりと汗が浮かんでいる。
大して広くない教室で、たくさんの級友と席を並べ、授業を受ける。
たったそれだけの事でも、彼にとっては修験者の苦行のようなものである。
勉強になど、身が入るはずもなかった。
一秒でも早くここから逃げたい。
心はそんな思いしかない。
辛さからいっそ死を考える事もしょっちゅうである。
しかし漠然とした死の恐怖から、最後の一線を越えられた事はいまだにない。
(越えたら死んでしまうのだから生きている限りそれは当然なのだが)
だからといって家族や友人に、自分の本音を洗いざらいカミングアウトする、
という事も彼にはできなかった。
特に友人には、だ。
またいじめられっ子に戻るのだけはごめんだからである。
(結局、『ジャイアン』を演じ続けるしかないんだ……。)
タケシは手の甲でこっそりと汗を拭いながら自分を嘲るかのように微笑した。
「野比君。この問題を解いてもらおうかな」
ハッとしてタケシは顔を上げた。
教師はコツコツとチョークで黒板に書かれた問題を叩いた。
少し怒りが含まれている口調とひきつった顔から、
のび太はまた居眠りをしていたんだなとたやすく予想がついた。
「は、はい!……えっと、え〜っと…」
のび太の慌てっぷりと寝起き直後特有の舌足らずな喋り方から、
タケシの予想が的中していた事がうかがえた。
「え〜と、え〜っと…分かりません…」
「居眠りなどしてるからだ!!今日でもう三回目だぞ!!」
教師に怒られるのび太に、クラス中で失笑が起きる。
しかし、タケシが感じたのは呆れやおかしさなどではなく、激しい憤りだった。
のび太と同じクラスになってしばらくの間、タケシは何故そこまでの感情を抱いていたか、
自分でも理解できなかったが、今ではなんとなくその理由に見当がついていた。
過去の自分とのび太を重ねて見てしまうからだ。
誇れるものは何もなく、周りに流されるだけ。
しかし、彼には救いがあった。
未来からのび太を助ける為だけにやってきた青ダヌキ。
求めても求めても自分には救いの手は差し伸べられなかったというのに。
その事が更にタケシの怒りを大きくした。
未来からの青ダヌキにも、何でも思う通りにしてしまう便利な道具にも甘えてはダメなのだ。
結局、のび太自身の力でどうにかしようと努力しなくては、のび太は堕ち続けるだけだ。
だから自分はのび太をイジメるのだ。
のび太が一人で歩ける様に。
自分の様に歪んでは欲しくない。
故に、今日も殴る。
明日も殴る。
殴るのだ。


………タケシは確かにのび太に怒りと不安を同時に抱いていたのかもしれない。
けれども本当はただのび太が憎いだけで、自分と同じになって欲しくないから殴るというのは、
ただイジメを正当化したくなかっただけなのかもしれない。
あるいは、他の理由があったのかもしれない。
だが、タケシ自身それはどうでもいい事だったのだろう。
タケシの闇は、もはやどうしようもない程までに広がってしまっていたのだから。


「のび太!文句があるならかかってこい!」
『ジャイアン』ことタケシは理不尽な暴力の度に、のび太を挑発した。
敵うわけもないのだが、のび太がタケシに立ち向かう回数は少しずつ増えていった。
今日ものび太は挑み、コテンパンにのされた。
タケシが去った後、クラスメイトのしずかがのび太のもとへと駆け寄ってきた。
「のび太さん、大丈夫!?」
「……うん」
派手に倒れたのび太をしずかが起こす。
「どうしてタケシさんに向かっていくの?いつもいつも痛い思いするだけなのに…」
「………」
口端に手をやる。
血が出ていた。
手についた血を眺めていた間に、しずかはのび太に軽い応急手当を済ませた。
「……ありがとう」
のび太はなんとか自力で立ち上がると、ふらふらと歩き始める。
「のび太さん……」
しずかの呟きに、のびたの足が止まる。
「僕が………なんだ」
のび太の答えはほとんど聞き取れなかった。
「え?」
聞き返すしずかに、しかしのび太はもはや何の反応もせずに、
傷ついた体を引きずって去って行くだけだった。
しずかはその様子を見ながら、何か違和感を覚えずにはいられなかった。
のび太は、自分がやらなければいけない事を悟っている。
小学生に当てはまる様な物言いではないが、のび太の背中を見ているとそんな感じがした。
(………………)
しずかは、いつになく真剣な顔で、のび太の背中を眺めながら何かを考え込んでいた。


太陽の光もロクに差し込まない暗闇の中に、青ダヌキはぼんやりと一人佇んでいた。
(このままだとまずいか……?)
その顔は、普段、のび太や他人に見せる愛嬌の良さなど微塵もなく、
感情などまるで最初からないのでは、と見る人に思わせる程に無機質で冷たかった。
(放っておけば本来の歴史通りになるかもしれない)
もし彼に汗腺というものがあれば、冷や汗をかいていてもおかしくない程に、彼は切羽詰っていた。
(原因はやはり、あの男、ジャイアンか)
そう、奴のせいでのび太は、青ダヌキに頼る事も少なくなり、精神的に成長しつつあるのだ。
(あまり、荒々しい真似はしたくなかったのだがな、もはやそうも言っていられまい。
彼には、この辺りで舞台から降りてもらおう。そしてその前にもう一人、彼にも―――)
彼は決意した。決めたのだ。
そこにはもはや、躊躇も、葛藤もなかった。


青ダヌキが決意を固めている頃、別の場所。
少女が一人、何事かをぶつぶつと言っていた。
「一時間待っても来ない。つーことは、何かあったんかね、あいつは…」
待ちの外れにある、使われなくなってからしばらく経つ廃工場。
朽ち果てた鉄材が積み重ねられているその頂点部分に彼女は腰を下ろしている。
「ろくすっぽ命も残ってないくせに、無茶するからだよ…ったく」
進入する際に無理矢理引きちぎった入り口の南京錠をいじっている。
「なんかこっちにまでとばっちりが来そうだな……面倒」
ぽい、と南京錠を放り投げ、指をぱちんと鳴らす。
すると、軽い炸裂音を鳴らして、南京錠が弾け飛んだ。
「おっ、なかなか…でもやっぱり難しいなこりゃ」
右の手を見つめながらマッサージをする。
「やっぱ実戦の中で練習すんのが一番か。………ま、ちょうどいい練習台も来たし、ね」
少女は、自分が入ってきた入り口の方に目をやる。
そこには十数人程の人だかりができていた。
年齢や背格好はバラバラで、買い物袋を下げた夫人から、制服を着た学生、
サラリーマンや警察官までいる。
しかし、全員が全くの無表情で押し黙ったままで少女の方を見ている。
突然に一斉にそれらが駆け出し始めた。
そのスピードは一般人の限界を軽く超えている。
少女はそれを見ても特に驚きも慌てもしない。
廃材の上から飛び降り、リラックスした状態で相手の様子を見ている。
サラリーマンが勢いもそのままに殴りかかってきた。
少女はサラリーマンの懐に飛び込んで拳をかわすと同時に、
背広を軽く引っ張り、自分の背中で相手を滑らせるようにしてそいつを放り投げた。
間を置かずに、主婦が両手に下げた買い物袋を振り回しながら向かってきた。
だがそれも手で受け流し、買い物袋は主婦自身の顔面へとぶつかった。
少女は自分の力はほとんど使わず、相手の力を最大限に利用しながら戦っている。
(身体能力の増加だけで動き自体は単調でロクに統率もされていない。
おそらくは―――青ダヌキが直接操作しているんじゃなく、       
不審者に対して自動的にそうなるように仕込まれてたってことかね)
考えながらも体は迷わず動き続けている。
(ここでの待ち合わせは初めてだったのに、しっかり準備されてたって事は…)
青ダヌキを直接見張っている彼女の仲間はもっと危険な事態に直面しているに違いない。
(こりゃいよいよもってこの世界もマズくなってきた……どうするかな)
少女は少しだけ考えたが、すぐに
「んなこたぁ…こいつらを片付けてから決めればいいか………!」
両手の指が、パチンと鳴り響いた。


「デキスギ君…僕の回りをこそこそこそこそ…。君はネズミかい?」
夜の街をデキスギは駆け抜ける。
しかし、全速で走ってもどこからともなく青ダヌキの声がはっきりと耳に届く。
(くっ…逃げられない!)
デキスギはビルの外壁のわずかな出っ張りから出っ張りへと跳躍し、屋上へと向かう。
(戦うしかないのか…)
「君と、もう一人、彼女が僕の事に勘付いてるのは分かっているよ。
もっとも、彼女はほとんど動いていないみたいだけれど」
青ダヌキの声は四方八方から聞こえ、デキスギには位置が特定できない。
(どこから来る……)
「だけど、君みたいに嗅ぎ回ってるのは放っておけないな。だってほら」
(集中…)
「僕はネズミが大嫌いだから」
声は背後から聞こえた。
「――――ッ!」
気合と共に、後ろ回し蹴り。
青ダヌキの東部に吸い込まれるようにヒットした。
同時に、両の手のひらを青ダヌキの胸部に押し当てる。
刹那、青ダヌキの両手足が弾け飛んだ。
支えを失い、青ダヌキはその場に崩れ落ちた。
「はぁっ…はっ…はぁ…」
口から漏れる荒々しい呼吸をどうにか落ち着けようとする。
だが、治まる気配はない。
次第にそれは咳へと変わっていく。
その咳も明らかに様子がおかしく、まるで病に冒されているようだった。
「げふっ……!」
口元を押さえる手が、赤く染まる。
「おやおや、君の体はもう取り返しのつかない所まで、行き着いてしまったみたいだねぇ…」
眼前の青ダヌキが憎たらしい笑みを浮かべている。
「道理で、君の身体能力や、戦闘能力も減退している訳だ。
いつもなら僕の体に直接ゆさぶりをかけずに、
指を鳴らすだけで僕の体を爆発させられたんじゃないかい?」
「半分……当たり、で…半分…はずれ…だ…」
「半分、かい?」
「確かに…この体はもうろくに…動かない…が…
能力は…既に…彼女に渡、した…」
「ほう、彼女にかい?それは楽しみだ…しかしいいのかい?
僕にそんな事を教えてしまって」
「構わんさ…お前はここ、で…終わるんだからな…」
デキスギは再び青ダヌキの側に歩み寄る。
「君の言う通り、もう一撃ももらったらここにいるボクは終われるだろうね…」
青ダヌキは余裕の表情を崩さない。
デキスギは黙って右手を青ダヌキの頭部へと近づけていく。
「でも」
頭部まであと数センチ。
「ボクはボクだけじゃない」
―――――――びくん。
頭部に触れる直前で、デキスギの身体は大きく引きつった。
デキスギは自分の腹から突き出ている、鮮血で染まっているものを見た。
腕だった。
首を回し、背後の襲撃者の姿を確認する。
「なん…だって…!?」
デキスギは目を見開いた。
そいつはにやりと笑い、こう言った。
「そして君はボクになる――――」
腹の中で何かが蠢き、全身の自由が効かなくなっていく。
「――――――――ッ!!!」
デキスギの叫びが、音となって放たれる放たれる事は、なかった。


(一体、なんなんだこいつらは!?)
タケシは突然の事態に困惑しながらも、状況を理解しようとした。
放課後、学校から帰宅したタケシは、母に隣町の知り合いの家に届け物をしてくれと頼まれた。
外出するのは嫌だから。と断る訳にもいかず、他人の視線に怯えながらも足を運んだ。
どうにか用を済ませたのも束の間、タケシはどこぞの不良に絡まれてしまった。
相手は中学生か高校生で、三人組だった。どうやら相手の一人の弟が、
以前タケシとケンカをして負けたらしく、兄がその雪辱を晴らそうというらしい。
三人がかりで、だが。
ここで退いたら、ガキ大将の名に傷がつく。
そうすればまたイジメられっ子に戻ってしまうかもしれない。
そんな事態はどうしても避けたいタケシは渋々そのケンカを買う事にした。
人目がつきにくい、バブルの影響か、今では潰れてしまっている廃ビルの裏で闘いは始まった。
一対三とはいえ、人並み外れた腕っぷしのタケシは、互角以上の戦いを演じた。
戦う事しばらく。
奇妙な出来事は、突然やってきた。
三人の不良は突如ヒューズが落ちたかの様に
ガクッと全身の力が抜け、前のめりの姿勢になった。
三人とも、全く同じタイミングで、だ。
三人は数秒間、同じポーズを保っていたかと思うと、またもや同時に頭を上げた。
その表情には、生気というものがまるで感じられなかった。
それは青ダヌキが決して人前で見せる事がない、
温かさの欠片もない冷徹な顔と酷似していたのだが、
タケシがそんな事を知っているはずがない。ただ、驚くばかりだ。
しかしタケシの驚きと事態の悪化は、それで終わりではなかった。
戦い方までもが、先のそれとは変わりすぎていた。
三人はバラバラに向かってくるのではなく、事前に打ち合わせでもしていたのかと思わせる程――
否、それ以上に、その動きは統率されて、無駄も隙も感じさせなかった。
二人がタケシの気を引きつけている間に、一人が死角に入り、攻撃する。
ただそれだけでも何パターンもあり、しかも同じ攻撃パターンは滅多に出さない。
「ぐあっ!?」
タケシが低く呻いた。
ガードなど意味を介さない。
タケシが一人に殴りかかろうとしても、すぐにほかの二人がガラ空きになった急所を、
的確かつ同タイミングで襲う。
(こ、これじゃまるで……!)
闇雲に振り回した腕ががっしりと掴まれる。
『これじゃ、まるで三人が一人みたいだ―――かい?』
三人の口から同じセリフが、寸分のずれもなく、吐き出された。
完璧なステレオだった。
タケシは絶叫する事しかできなかった。
何故なら、その声は、青ダヌキのそれそのもので――――


「おかえりィ…のび太くん」
帰宅したのび太が二階の自室に戻ると、見慣れた顔がいつものように笑顔で出迎えた。
見慣れた顔のはずなのだが、今日はその笑顔がやけに不気味に思えた。
何か面白い事でもあったのか、うふふ、うふふとしきりに笑っている。かなり怖い。
「た、ただいま」
ランドセルを下ろしたのび太は、畳に座り青ダヌキと対峙する。
目の前にいる、未来から来たらしいロボットは、
薄気味悪い笑みを浮かべながら、頭を左右にゆらりゆらりと振っている。
のび太は落ち着かない。落ち着くわけがない。
さてどうやってこの場から逃げ出そうかと考えていると、
青ダヌキはおもむろに口を開いた。
「のび太くん……最近立派になったね……」
「……何?いきなり」
「いやいや、本当に精神がこの頃澄み出してきたよ…。
以前は泣き言ばかりで僕の道具も喜んで使ってくれてたのに」
のび太は沈黙するばかりだ。
「やっぱり、君をそこまで"持って"いったのは、彼、ジャイアンの影響なんだろうね?」
「なんで、そんな事」
のび太の声は、少しかすれていた。
「君はジャイアンに苛められているものの、彼を嫌ったり、憎んだりはしていない。
それは何故だい?」
青ダヌキはのび太の声を聞き流して話を進める。
「僕は、僕は……」
のび太は青ダヌキの目を見て喋る事ができなかった。
怪しげに光る双眸は、見る者を取り返しのつかない深みまで
引きずり落としてしまう様な錯覚さえ感じさせる。
のび太が言葉を濁していると、階下からけたたましい電話のベルが鳴り響いた。
これ幸いとのび太は部屋を飛び出して、一階の玄関にあるレトロな黒電話の受話器を手に取る。
「はい、野比です」
「のび太さん!?」
電話の相手はのび太もよく知っている人物だった。
「ああ、しずかちゃん?どうしたの?」
「タケシさんが、タケシさんが……」
様子がおかしい。
「どうしたの。ジャイアンがどうかしたの?」
しずかはいつもならこの時間、隣町まで習い事に出かけているはずだ。
外から電話しているのか、車の駆動音やら人の声が、かすかに聞こえる。
言葉を促すのび太の背後には、いつの間にか音も立てずに青ダヌキが忍び寄っていた。
ピエロのようにも、はたまた悪魔のようにも見える笑みを浮かべながら。



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