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ゲンムの中で。 - 扉を開けると、目の前には真っ白な世界が広がっていた。
「すご…」 滅多に見られない光景に、思わず感嘆の声が漏れる。 外は、数メートル先さえ見えなくなるほどの濃霧が、街全体を包んでいた。 こんな日に入学式だなんて、めでたいと言えるのだろうか。 疑問に思いながらも、僕は高校への道を歩き始めた。 この春より通うことになった高校は、家から歩いて20分程度の距離で、 通うのであれば一番楽な場所であったが、しかしこの辺りでは一番合格が難しいところであった。 実際、自分が合格したのはほとんど奇跡に近かった。 その奇跡のお陰で、自分は今、霧の中にいても何とか迷わずに辿り着ける距離にある学校に通えている。 しかし、凄い霧だな、と改めて考えた。これ程までに濃密な霧は見たことがない。 ほんの少し歩いただけなのに、既に我が家は霧の中に埋没しかかっていた。 早朝だからかすれ違う人もなく、音さえも、この白い壁に阻まれているのか、何も届いてこない。 ただ自分の、履き慣れない革靴が生み出す足音だけが辺りに響く。 静寂と、白い暗闇。 その中に身を置いていると、まるで自分だけが世界から取り残されたのではないかと錯覚し、急に心細くなってくる。 だが、それはすぐに立ち消えることとなった。 「おはよ」 中学時代に見慣れたセーラー服に身を包み、頭1つ分低いところから笑いかけてくる彼女は、いわゆる幼馴染という関係だった。 家がすぐ近くで、小さい頃はよく一緒にに遊んだものだった。 「おはよう」 挨拶を返すと、彼女は僕の隣に立ち一緒に歩き始めた。先程まで感じていた心細さはいつの間にか消え去り、 代わりに、懐かしさにも似た感情が込み上げてきた。 そういえば、春休みの間、お互いの用事が重なって、一度も顔を合わせていなかったことをふと思い出す。 何故今まで忘れていたのだろうか。そう不思議に思うほど、彼女の存在は今の僕に安らぎを与えてくれた。 「また、同じ学校だね」 どこか弾んだ声で彼女が言った。そうだな、と僕はそれとなく返事を返す。 そう、幼稚園から中学まで、ずっと一緒だった幼馴染は、高校までも一緒だった。 いや、一緒にした、と言うべきか。 僕が今の高校を志望した一番の理由は、彼女にあった。と、言っても、そんなに大袈裟なものでもない。 どこの学校にも興味がなく、ふらふらとしていたある日、彼女がこの高校を受けると聞いて、 じゃあ自分もそうしてみようか、くらいのものだった。今思えば、何と適当な決め方だろうか。 自分が志望した高校の名前を聞いて、担任は引きつった。両親は青ざめながら愛想笑いを浮かべた。 それ程自分とその高校が不釣合いだったのだろう。 担任はいかにその挑戦が無謀なものであるか、ゴーカートがF1に出場したらどうなるかという例を持ち出してまで、 親切丁寧に説明してくれ、両親は口では笑いながら、目元は笑っていなかった。 その夜、真剣な顔で僕を病院に連れて行った方がいいか相談している2人を、僕は見なかったことにした。 それ程危険なのかとぼんやりと思いながら、しかし自覚はしていなかったのだからタチが悪い。 そんな周囲の冷たい反応の中、しかし彼女だけは違った。少し驚いた後、 「じゃあ、また一緒だね」 と、優しく笑ったのだった。たったそれだけで、僕はこの高校を受ける決意を固めてしまった。 担任も両親も半分冗談か何かと受け取っていたのだろう。僕が本格的に受験勉強を開始すると、 いよいよ真剣に青ざめ始めたが、僕には関係のないことだった。 普段パッとしない、というより下から数えた方が早いくらいの成績は、単純に勉強していなかったのが原因だったらしい。 真面目に取り組み始めると、成績は目に見えて急浮上し始めた。 勉強も、やってみると案外面白かった。目的があり、ソレに向かって自然努力するようになり、 それがはっきりとした結果として表れるのが、快感ですらあった。 何より、彼女が勉強を見てくれたのが大きかった。 学年で1,2を争う秀才は、教え方も教師が舌を巻くほど上手だった。持つべきものは優秀な幼馴染だと思う。 うちの中学の教師は、少し自分の身の在り方について考えた方がいいかも知れない。 彼女に勉強を教わる生活の中で、僕は心の中に温かいものを感じていた。 幼い頃と違い、中学に入ってからはお互いの付き合いというものがあって、自然と積極的に関わることはなくなっていた。 彼女には彼女の、僕には僕の生活があり、お互い踏み入ろうとすることはなかった。 また、同時に男女というものを意識し始める頃でもあり、それとなく僕もそのことを意識していたことも一因であった。 それが、同じ学校を受けるというきっかけで、昔のように気兼ねなく話せるようになれたことが、嬉しかった。 高校に合格したと聞いて、一番喜んでくれたのは、他の誰でもない、彼女だった。 僕にとって、高校を合格したことより、彼女が「おめでとう」と言ってくれたことの方が嬉しかった。 そして今現在、僕はこうして彼女と肩を並べて同じ学校に向かっている。 何もかも、彼女のお陰だった。 「夢みたいだよ」 「何が?」 「こうして…目標の高校に入れたことが」 君と一緒の、という言葉は、すんでのところで飲み込んだ。 気恥ずかしいという思いもあったが、頭の中で、それを言ってはいけないと、誰かが言っている様な気がしたから。 「全部、君のお陰だよ。ありがとう…」 「違うよ、受かったのは、あなたの実力。私はほんの少し手伝っただけ」 そう言って、穏やかに微笑む彼女に、僕1人じゃ絶対に受からなかったろうと心の中で呟いた。 久しぶりに見た彼女の笑顔は、優しすぎて、切なくなるほどだった。 1ヶ月見ていなかっただけなのに、最後に見たのはずっと昔の出来事のように思えた。 「それにしても…すごい霧だね」 改めて前方を見やると、ひたすらに真っ白な世界が延々と続いていた。 心なしか、さっきより濃くなっているような気がする。 「そうね。まるで、別の世界に来ちゃったみたいね?」 いたずらっぽく笑って見せる彼女に、確かに、と頷く。 あまりにも霧が濃すぎて、普段見慣れているはずの町並みが、まるで違う場所のように目に映る。 目が痛くなるほどの白の世界。 そう、ここはまるで。 「あの世みたいだ」 ポツリと呟いてみて、そうだ、と思う。 人の姿もなく、音もなく。 ただ静寂だけが辺りを支配し、人が存在することさえ許さない。 そんな雰囲気があった。 「あの世、か…本当にそんな感じね」 「怖い?」 からかうような僕の問に、 「ん、少し…」 弱弱しく応える彼女。そう言えば、昔から怖いものが苦手だったな。 中学に入ってからの彼女のことは知らないが、この様子だと克服していない様だった。 普段頼りっぱなしだった彼女の弱いところを見て、何故だか嬉しくなる。 「手でも繋ぐ?」 冗談のつもりで言った言葉を、彼女はそうは受け取らなかった。 「いいの…?」 おずおずと言った感じで手を伸ばしてくる彼女に、僕は手を差し伸べた。 そっと繋いだ彼女の手は、想像していたよりずっと小さく、柔らかかった。 霧で周りが見えないせいだろうか、不思議と恥ずかしくはなかった。 強張っていた彼女の手は、やがて安心したように力が抜けていく。 霧は相変わらず晴れる様子はない。 僕達を世界から切り離し、たった2人だけ置き去りにしてしまう。 もしも、この繋いだ手を離してしまったらどうなるだろうか? 考えて、それがとても怖いことのように思えた。 手を離したら、そのまま彼女は霧の中に消え、僕の手の届かない場所に行ってしまいそうだった。 そんなはずはない、と思いつつ、安心したくて隣を見る。 頭1つ分低いところに、彼女の顔があった。ふと、彼女がこちらを見上げ、目が合う。 彼女の優しい微笑がそこにあることに、無意識に安堵していた。 それから、そのまましばらく2人とも無言で歩いた。お互いの存在を確かめるように、手を繋いだまま。 何か話した方がいいだろうかと、口を開きかけた時、彼女がポツリと呟いた。 「憶えてる?」 「え?」 「昔にも、こんなことあったこと」 ふふ、と彼女はくすぐったそうに笑った。 「昔?」 「憶えてないかなぁ?ホラ、私達が小学生の頃、海まで行っちゃったことあったでしょ」 「あぁ」 そう言えば、そんなこともあった。 「あの時は本当、どうしようかと思っちゃったっけなぁ…」 言われて、しみじみと思い出す。確かに、あの時はどうなることかと思った。 小学生の頃、僕は探検ごっこが大好きだった。 自分の知らない場所を探し、見つけることに興奮を覚えていた。 当時はまだ何も怖いものなんてなくて、恐怖なんて言う言葉自体知らなかった。 彼女は、そんな僕の無謀とも言える行動に、いつも付き合ってくれていた。 お陰で、今でもこの辺りの道については、交番の警官なんかよりよっぽど詳しい。 ある日のことだ。既に地元はほとんど探索し尽くし、特に目新しい場所もなくなっていた。 行き先に困った僕は、彼女に行ってみたい場所はないか尋ねてみた。 「海、行ってみたい」 やや躊躇った後、彼女はそう呟いた。 海というものを僕は一度も見たことがなかった。 どんな場所であるのかとても興味があったが、行ってみようと思ったことはなかった。 しかし、彼女のその提案は、行き先を求めていた僕にとって、名案のように思えた。 思ったら即行動。僕は海のある方角を地図で知ると、翌日早速海を目指した。 地図の見方をよく知らなかった僕には、海は目と鼻の先のように思えたのだが、 電車で30分揺られただけで、その考えは甘かったと反省した。 電車に大人抜きで乗るのも初めてだったが、不思議と怖いとは思わなかった。 というより、隣で不安そうな顔をしている彼女を見ていると、 自分がしっかりしなくては、という気持ちになるのだった。 程なくして、僕らは海の最寄り駅に到着した。 その時僕らは春休みだったのだが、季節外れだったのと、平日の昼間だったことが重なって、 僕達以外には電車から降りる影はなかった。 もともと人が電車にさほど乗っていなかったのも理由であると思うが。 電車の窓からも海は見えた。初めて見る海は、距離感のせいかいまいち実感が湧かなかったが、 歩いて近づいていくにつれ色濃くなっていく潮の香りと波の重なる音が聞こえ始めると、 自然と胸が高鳴ったのをよく憶えている。 彼女にとってもそうであったらしく、普段大人しく、落ち着いている表情が生き生きとしていたのを見て、 ただそれだけで、あぁ来てよかったな、と思えた。 探検と同様、彼女の嬉しそうな顔を見るのは、僕の楽しみだった。 目の前に広がる大量の海水。 どこまでも続く水平線を見た時の興奮と言ったらなかった。 まだ春先で寒いという彼女の言葉を無視して、海に飛び込んでしまうほどに。 忠告どおり、まるで氷風呂の中にでも入っているような寒さだったが、しかしそれでも楽しかった。 つられて彼女が笑ってくれたのが嬉しくて、僕はまた笑った。 事件が起きたのはその後だった。 いい加減遊びつかれ、そろそろ帰ろうかという話になった時だった。 ポケットに入れておいた僕のサイフがなくなっていた。 恐らく最初に飛び込んだ時だろう。先程までの楽しい気持ちは瞬く間に吹き飛んでしまった。 夢の時間はもろくも崩れ去り、残酷すぎるくらいの現実が姿を現した。 僕は先程まで笑顔で相対していた海に、必死の形相で飛び込んだ。 アレがなければ、帰りの電車に乗ることはできないのだ。 見つかるはずだ、見つけなければならない。 しかし僕の願いは届かず、1時間もぐり続けても見つかることはなかった。 濡れ鼠になった体に海の潮風は冷たく、太陽もまた傾き始めていた。 これ以上探しても見つかるまい。僕は大人しく現実を受け入れると、先のことについて考えた。 彼女の方を見ると、不安そうな眼差しでこちらを見ている。 これ以上、彼女を付き合わせるわけにもいくまい。 僕は彼女に、先に帰るよう伝えた。しかし、彼女は首を横に振った。 後で追いつくから大丈夫だと言っても、彼女は頑なに首を横に振り続けた。 どうしたものか、と困り果ててしまった。 小学生の少ない小遣いでは、2人とも電車に乗って帰ることは不可能だった。 僕だけ帰れないなら全然構わないが、彼女までそれでは困る。 だがしかし、彼女はどうあっても僕を置いて1人で帰ることに納得できないらしい。 しばらく話し合った後、残りの小遣いで2人で行けるところまで行くことで合意した。 僕は、彼女を巻き込みたくなかったのだが、 僕と一緒でなければ嫌だと言って泣きそうになる彼女の顔を見たくなかった。 意外なことに、というか何と言うか、彼女の所持金は僕なんかよりも全然多かったらしい。 なんと、2人で自宅の最寄り駅のすぐ隣まで行くことができた。 もしも流されたのが彼女のサイフだったなら、とんでもないことになっていただろう。 僕は口には出さず、心の中だけでお礼を言った。 しかし、お陰で彼女も一文無しになってしまった。 僕のことは気にせず少しは残しておけばよかったのに、と思いつつ、 彼女が全然悔いのなさそうな顔をしていたので、何も言わなかった。 駅を出て、2人で歩き始める。 空には星が見え始め、景色は徐々に暗闇に飲み込まれつつあった。 暗くなると危険が増える、急いで帰らなくてはならない。 線路沿いに歩いた方が確実なのだが、より早く帰るために別ルートを選んだ。 この辺りには以前自転車でやってきたことがある。帰れる自信はあった。 薄暗がりの中、僕と彼女は歩き続ける。暗闇が辺りをゆっくり、確実に包んでいく。 まだ子どもだった僕達にとって、未知の世界である暗闇は恐怖の対象であった。 怖いものなんてないと思っていた、のに。 自分のよく知らない土地に取り残され、視界が狭まり、何も見えなくなっていく。 人気が消え、音が離れていく。 どうしようもなく押し寄せてくる孤独感の前に、 いかに自分の存在がちっぽけなものであるか、思い知らされたような気分になった。 それでも、弱気になるわけにはいかなかった。 隣にいる、どうしようもなく怖がりな女の子を守ることができるのは、僕だけなのだから。 しかし、歩けど歩けど、自分のよく知る場所は全く姿を現さない。 この道で合っていただろうか。いや、合っていたはずだ。 しかし暗闇は、そんな自信を揺さぶり、打ち砕く力を持っている。 もしかしたら曲がるべき道を見逃したかもしれない。 いや、逆に全く進んでいないだけだろうか? 普段とまるで違う風景は、僕を迷わせ、惑わせる。 「ねぇ…」 「え?」 不意にかけられた声に、はっとなって僕はそちらを向く。 この頃から頭1つ分小さかった彼女の顔が、そこにあった。 「大丈夫だよ。きっと大丈夫」 ね?と言って彼女は笑う。目尻に涙を浮かばせながら。 不安そうに、肩を震わせながら。 僕の弱気が、顔に出ていたのだろうか。 彼女に、そんな言葉を言わせてしまうほど。 …全く、こんなんでどうする。 溜息をつくと、僕は彼女に手を差し出した。 彼女の不安を打ち払うように。僕の弱気を打ち消すように。 おずおずと繋がれた手が、柔らかく、温かかったことを、僕は今も憶えている。 「そんなこともあったっけ」 思い出して、しみじみと溜息をついた。確かに、この深い霧はあの時の暗闇によく似ている。 あの後、僕達はどうにか無事それぞれの家に辿り着くことができた。 ただ、両親にはとんでもなく怒られた。 女の子を危険な目に遭わせるとはどういうことだ、と。 僕の心配はしないのか、とは思わなかった。その通りだと思ったからだ。 もう二度と、彼女をあんな目にはあわせまいと、その時誓った。 「懐かしいよね…ねぇ、あの時、あなたが私になんて言ったか、憶えてる?」 「あの時?」 「ほら、全然家に辿り着けなくて。私が泣きそうになった時」 言われて、思い出そうとする。 何だったろうか。何か言ったのだろうか、僕は。 しかし、考えてみても何も思い出せなかった。 「憶えてない、かぁ…残念だな、嬉しかったんだけどな」 「…ゴメン、何だっけ?」 そう言った僕に、彼女は泣笑いのような表情を浮かべる。 「ずっと一緒にいるから。側にいるから、だから泣くな、って」 そう言えば、言ったかもしれない。が、何故だろう。 他の事は鮮明に憶えているのに、その言葉だけは、靄がかかったような頼りない記憶になっていた。 「言った、かな…」 自信なく呟いた僕に、彼女はまた泣笑いのような表情を浮かべた。 まるで、あの日のような、不安そうな顔。 何故、そんな顔をするのか。 しかし彼女は何も言わず、代わりに、 「ネクタイ、曲がってるよ」 そう言って、僕の首元にそっと手を伸ばし、ネクタイを解いた。 何度か練習はしてみたものの、どうやらまだきちんとつけられていなかったらしい。 彼女はそんな僕のネクタイを、まるで母親が子どもにするような優しい手つきで直していく。 「あなたが」 結びながら、彼女がポツリと呟く。 「私と一緒の高校にする、って聞いた時ね」 「え?」 「あの時の約束、守ってくれてるんだ、って嬉しかったんだ」 「…はっきり、憶えてなかったけど」 少なくとも、今は憶えてなかった。 申し訳なさそうに呟く僕に、しかし彼女は優しく微笑んだ。 「それでも、いいの。それだけで、私は嬉しかった」 たどたどしい手つきながら、ゆっくりと丁寧に彼女はネクタイを直していく。 両親にも担任にも言われた。何故、そんなにムキになってレベルの違う学校へ行こうとするのか。 その時は、僕にもわからなかった。ただ、幼馴染が受けるから。それだけが理由だった。 本当に、それはただのきっかけみたいなもんだと思ってた。 だけど、今思えば僕は、無意識中にあの約束を憶えていたのかもしれない。 口に出すのも恥ずかしい、幼稚な約束を、律儀にも守っていたのかもしれない。 しかし、ならば何故、僕はその約束のことを、全く思い出せないのだろうか。 唐突に、何かを彼女に言い忘れていたような気になった。 だが、その言葉は何だったのか。それも何故か思い出せない。 何でこんなにわからないことだらけなのか。まるで、霧が全てを覆い隠してしまっているようだ。 あの日の暗闇が、白い霧に姿を変え、襲い掛かってくる。人影もなく、音もなく。 僕らを別の世界へと迷い込ませようと、手を招く。 だが、それも悪くないかもしれないと今は思う。 彼女と一緒なら、たとえ他に誰もいない世界でも構いはしない。そう、彼女さえいれば。 自分にとって、彼女はこんなにも大きな存在だったのだろうか。 ずっと、すぐ隣にいるのが当たり前の存在だと思ってた。ただの幼馴染だと思っていた。 気兼ねなく話せる、ただそれだけの存在だと思っていた。 いつからだろう、彼女をこれほどまでに想うようになったのは。 そして、いつこんな自分に気付いたのだろう。 何か、きっかけがあったはずだ。とても、とても大切な。 けれど、それさえも思い出せない。確かにすぐ最近あったことのはずなのに。 全ては、霧の中に隠されて、見えなくなっていってしまう。 ふと、彼女に会わなかったこの一ヶ月間を思い出そうとした。 一ヶ月。随分と長い間、彼女に会わなかった。 何故、自分は会いに行こうと思わなかったのだろう。 彼女には、いつでも連絡が取れたはずなのに。 急に、何もしなかった自分が、不甲斐なく思えた。 こんなにも想っていたのに、何故僕は何も行動しようとしなかった?できなかった? その答えが出る前に、彼女が僕のネクタイを結び終えた。 そして、名残を惜しむように、ゆっくりと手を離す。 離れていく、手。 ほんのわずかの距離なのに、彼女の姿がぼやけて見える。 この手が、離れてしまったら。 二度と、届かなくなるような気が、して。 とっさに僕は手を伸ばした。しかし、その手は彼女の体をすり抜けるように届かなかった。 背筋を冷たい何かが這い回る。 これが不安だと言うならば、何で、何で僕は今、こんなにも不安なんだ? どうして今、こんなにも、彼女を想っている? 頭の中で、何かが目を覚まそうとしている。 忘れていた記憶。思い出せなかったかつての約束。 頭の中の靄が晴れていく。それに呼応するかのように、霧が徐々に晴れ始めていた。 数メートル先すら見えなかった道が、その姿を現し始める。 だが、彼女の周りと、その背後に伸びる道だけは、霧に包まれたままだ。 不思議に思う一方で、その道が、子どもの頃一度も見たことがないことに気付いた。 忘れているはずはない。この辺りの土地のことは、地元のおまわりさんなんかよりよっぽど詳しい。 かつて何度も通った道。暗闇の中、彼女と帰った道。 こんなところに、分かれ道なんて存在しない。 彼女は相変わらず、泣笑いのような困った表情を浮かべている。 その瞳には、うっすらと光るものが見えた。 「ずっと一緒だって約束、守ってくれてありがとう」 困ったような表情のまま、彼女は呟くように言った。 「君と一緒に、こうして学校に行くことは、私の夢だった」 ふと、彼女の背後の道に向かって、風が吹いた。 それに揺られ、彼女のセーラー服の裾が揺れる。 中学時代に見飽きるほど見た、あの服だ。 「けれど、私が一緒に歩けるのはここまで」 何故会った時にすぐ気付かなかったのだろう。 彼女がこの高校を志望した理由の1つは、ここのブレザーが女の子の間で人気だったからだ。 「ゴメンね。私から、約束破っちゃって」 全てを思い出し始めていた。そしてそれは、この一ヶ月間封印していた記憶だ。 「私も、その服着たかったけどね」 必死で忘れようとしていた。認めたくなかったから。そんな現実を。 押し寄せてくるあの日の暗闇に、立ち向かえるほど僕は強くなかった。 「けど、それはもういいの。ただ、あなたがこんなところを歩いているのを見るのは見てられなかった」 彼女の前では絶対に見せようとしなかった、弱気な表情を、今僕は浮かべていた。 「私のことで、立ち止まって欲しくないから。迷って、欲しくないから」 そう言って、彼女は笑う。泣笑い。肩を震わせながら。 「あなたの、そんな姿は、見ていたくないから」 霧が晴れていく。風に従い、僕の方から彼女の方へと、吸い込まれるように消えていく。 その霧についていったら、僕は彼女と一緒に行けるだろうかという考えが頭を掠めた。 たとえその先にどんな世界が広がっていようと、僕は構わなかった。 しかし、僕の足がそちらへ向かおうとすると、彼女は悲しげに首を横に振った。頑なに。 彼女の悲しそうな顔は、見たくなかった。足を止めざるを得なかった。 それを見て、彼女はまた優しく笑う。 「だから、お願い。私の分まで、立ち止まらないで−」 不意に、彼女に言い忘れていた言葉を、思い出した。 言いたくて。でも最後まで言うことができなかった言葉。 言えなかった、言葉。 彼女が、残りのセリフを言い終える前に、僕の足が再び動いた。 彼女の顔が強張る。だけど、関係ない。 僕の目的は、彼女の背後の道にはない。 首を横に振ろうとする彼女を、そっと、優しく抱きしめた。 手を握った時から気付いていた。 彼女の手に、温もりが欠けていた事を。 頼りない彼女の肩を抱きしめ、頭1つ分小さいところにある耳に口を近づける。 「ありがとう…」 囁くように、その言葉を呟いた。 子どもの頃、彼女を助けてやれるのは自分しかいないと思っていた。 けれど、それは勘違いだった。 いつだって、彼女が僕を助けてくれていたのだった。支えてもらっていたのは、こっちだった。 受験の時も、あの日の暗闇からも、そしてこの霧の中からも。 これは、ずっと言えなかった感謝の言葉。 そして、ずっと認めることができなかった、現実と向き合う、決別の言葉。 僕は、もう迷わないから。 君が、そう望むのなら。 おずおずと、彼女の手が背中に回される感触がした。腕の中の人が、背伸びをして、耳元に口を近づけて。 「さようなら…私の、大切な人」 やがて、彼女の顔は霞んで見えなくなり。 背中に回された手の感触も、腕の中の感触も消えていき。 霧が、晴れた。 気がつけば、学校の前に僕はいた。随分と長い間、歩いていたような気がする。 歩いてきた道のりを振り返る。 まっすぐな一本道。分かれ道はおろか、脇道さえ存在しない。 彼女がこの世界からいなくなったのは、皮肉にも合格発表の日だった。 見通しの悪い霧の日。車にはねられて。苦しむ間もなく、だったそうだ。 彼女が、新しい制服に腕を通すことはなかった。 葬式に出席しても、彼女の死を現実として受け入れられない自分がいた。 コレは違う。コレは、何かの間違いなんだ。 そして、全ての現実から目を背けた。 自分を守るために、全てを忘れた。 あの霧は、何だったのだろうか。 夢か、幻か、それとも。 心配性で泣き虫の彼女が、遠い世界からやってきてくれたのだろうか。 知ろうにも、全ての真実は霧が持っていってしまい、何もかもが謎に包まれてしまった。 ただ確かなのは、誰かと手でも繋いでいたのかと思う程に手が汗ばんでいたこと、 それと、ネクタイがやけに丁寧に締めてあったこと。 始業チャイムが鳴り響く。 この辺りでは人気の高いブレザーに身を包んだ女子生徒達が、校門に向かって走っていく。 最初から遅刻では、また彼女を心配させてしまうだろうか。 苦笑すると、僕も校門へ向けて走り始める。 空は、暗闇も霧もまるで存在しないと主張するかのように、青々と晴れ渡っていた。 - 了 あとがき - どうも皆さん、こんにちは又はこんばんは。アキです。 この作品は、元は電撃文庫の短編のヤツに送ったヤツです。 見事返り討ちにあったわけですが… ずっとお蔵入りしていたのですが、このたび大幅加筆&修正して顔見せすることとなりました。 よもやここまで長くなろうとは…元の5倍ほどの量です、コレ。 ネタバレするようですが(まぁここであとがきから読む人はいなかろう)、 ここでのタイトルの一部、ゲンムというものをわざわざカタカナ表記にしたのには意味が。 ゲンには、「幻」と「現実」の意味が、ムには「夢」と「霧」をかけあわせているのです。 て、わざわざ言うことでもないか…トホ。 あ、ちなみに別作品ですが、「チズ」にも意味が。 アレは、血で書いたもの、と掛け合わせています。 カタカナ表記にするものには微妙に意味が重複してあったりするのです…それほど大したものでもないですが。 とりあえず、楽しんでいただければ幸い。 では、また。 …どうでもいいけど、幼馴染ネタ多いな私。 03/12/25 !-この小説は小説検索エンジン"楽園"に登録されてます-! ∠long ∠index |